職場で、工事があるからと一旦掘り起こされて、
工事終了後にもとの場所へ戻された紫陽花が、きれいに咲いていた。
紫陽花が好きです。
わたしの住む地域では、今年はなかなか梅雨っぽく雨が降らない。
紫陽花には雨が似合うのにな。
最近、意識的に自分を掘り下げる作業をしています。
そのたびに、嬉しい発見があったり、見たくないものを見て苦しかったり、情緒不安定になる。
すごく、疲れます。
このまま幸せになれず、ずっと満たされないままただ年老いていったらどうしようと、怖くなる。
でももし、
いざアナタ幸せになれますよ!幸せにして差し上げますよ!
って言われても、わたしはそれも怖い。
幸せがくると思うと落ち着かない。
今のこの満たされなさ、苦しいんだけど落ち着くようだ。
どこかで「幸せ恐怖症」という概念があるというのを見ました。
わたしは幸せになってはいけない。
幸せになるときっとこのあと不幸になる。というふうに思っていたり、
幸せになることに、罪悪感を感じたり…
という状態のことを言うそうです。
幸せになりそうになると、
例えばすごく愛してくれるパートナーができたとすると、
わざと無茶振りして愛を試そうとしたり、
自分から破局に向けて爆発したり。
わたしは試し行動したりとか、そこまでアグレッシブではないけど、
多分心のどこか奥底で、幸せに居心地の悪さは感じている。
パートナーだって、この人は幸せにしてくれなさそうだな、という人をあえて選んでいる気がしている。
全く意識してなかったけど、前回の記事に書いたように、小熊さん然り、元カレ然り。
幸せを避けるという行動を何故してしまうか。
それは、慣れ親しんだ「うっすらした不幸」の感情にいたほうが、
自分の心が安定して落ち着くから、らしいです。
私の場合も我慢や欠乏感が染み付いてるから、
しっかり我慢させてくれる人と付き合って、きっちり我慢して、
慣れ親しんだ我慢の感情で安定感を得てる、そんな感じがする。
人間、基本的に変化を嫌う生き物だから、
不幸→幸せすら、脳はただの変化と解釈するんやなぁ。
愛されなくて苦しい。
愛されたい。
けど、いざ愛されると、居心地悪くて苦しい。
ええー、どないしろと…。。
それに気づいてしまって、ちょっとした絶望感を感じています。。苦笑
意識的に変化させることは基本的にストレスにならないはずはないと思うから、
得体のしれない恐怖を感じるのは仕方ないことなんやろうけど…。
次のステージへの過渡期だと思って、やれることはやるのみですけどね。
冒頭の紫陽花。
今はキレイに咲いてるけど、
移植され直したときは枝はほとんど枯れてバキバキ、カスカスでほぼ緑色の葉っぱもなく、
「これ、復活せんとそのまま枯れるんちゃうか…?」と思ってた。
けど、そんな姿だったことが嘘みたいにきれいに咲いてる。
なんか、自然の力強さを見た。
しっかり植え直して、ちゃんとお水をあげれば、
枯れてた枝から葉が芽吹いて、美しい花が咲く。
そんな様子に、自分の未来も賭けてみたいと思った34歳の梅雨。
みんな、愛されることも幸せになることも、
なんなく受け入れられてすごいな。